*今日は、メンバー投稿を配信します。今回、寄稿してくれた毎熊那々恵さんのことは、長崎の被爆三世として原爆によって変形した花瓶を波佐見焼で再現する「Vase to Pray Project」を手に取る機会を得て知りました。被爆国に育った自分がするべきことはなんだろうかと改めて考えさせてくれたエッセイです。こうしたメンバー投稿を今後増やしていきたいと考えています。みなさんの活動についてのエッセイを引き続き募集しています。
ナガサキ、平和へのガイド
text: Nanae Maiguma, edit: motoko
「8月9日に黙祷の鐘が鳴らない」
長崎から上京して初めての夏。23才の時だった
当時、学生時代を過ごしていた渋谷。気づいた時には11時2分が過ぎていた。
私が生まれ育った長崎では8月9日11時2分に、原爆死没者の冥福と平和への想いを込めて、黙祷が1分間行われる。平和祈念式典の参加者のみならず、学校、家庭や職場、街中を歩いている人も立ち止まる。
地元にいた時から熱心に平和活動に取り組んでいたわけではないが、学校教育に平和学習が組み込まれており、原爆投下日は登校して平和の歌を合唱したり、被爆者の方から直接話を聞いたりもしていた。私には94才の祖母がいて長崎で被爆している。つまり私は被爆三世。
長崎を離れて生活する中で感じた違和感。そこから若い世代へ向けて、原爆投下の過去について知ってほしい、平和についてもっと考えてほしい、という想いが芽生えて始めた活動が「Vase to Pray Project」だ。
Vase to Pray Project :長崎に落とされた原子爆弾の熱風によって変形した瓶の3Dスキャンデータを元に、長崎の波佐見焼で精密に再現した作品「祈りの花瓶」を通して、かつて長崎に投下された原爆について、ひとりでも多くの人に知ってもらうと共に、世界の平和を祈るプロジェクト。体験を語り継いでいくための“アート”として、さらには、平和を祈る“花瓶”として、次の世代へ平和への大切さを継承している。
小さな頃から平和学習漬けの長崎で育った私たちは、わざわざ大人になってから爆心地周辺に出向くことは少ない。けれど実際は大人になったからこそ、見えてくるものもあると感じている。
活動を始めたことで、大人になってから自分の意思でもう一度“平和学習”をしたいと思っていた。2023年の夏、長崎原爆資料館から徒歩3分の場所にある5畳程の小さなギャラリーで展示を開催し、同時に街歩き企画も開催した。
活動を通して知りあった「二代目やっさん」、フランクな平和ガイドをしているという彼に街歩きのガイドをお願いすることにした。私も平和ガイドをうけるのは初めてで、どんな体験ができるのか楽しみだった。
8月6日15時30分。街歩き当日の最高気温は37.2度。当初は9日に開催を検討していたが、その日は爆心地周辺のいたる所でイベントが開催され、平和公園では式典も行われる。すごく混雑するので、あえて広島原爆の日にした。平和活動に興味がある人や、長崎に移住してきたからには知っておきたい、という思いで参加した人など、様々な理由で集まった20〜40代の10名での街歩きとなった。
半袖半ズボン、キャップをかぶったやっさん。いつもは街を歩きながら導入の話をするらしいが、今回は暑過ぎるということで、ギャラリー内でのスタートとなった。小さいスケッチブックを紙芝居のようにめくりながらフランクな話し方で、なぜ長崎に原爆が落とされたのか、などの真面目な話だけでなく、クイズもあった。
「被爆者健康手帳を持っている“被爆者”の方々は今、何人いると思いますか?」
私も調べたことはなかったし、参加者のみなさんも同様に答えることはできず…...
「答えは約11万人です」
意外と多いと思ったところで、彼は続けて、
「意外と多いと思いましたよね? でも2022年の調査では12.7万人以上の人がいたんですよ」
原爆の恐ろしさを知っている方々が地球上からいなくなってしまう未来が、もうすぐに迫っていることがわかった。
「じゃあそのなかで、語り部などの継承活動を行っている人は、長崎で何人いると思いますか?」
続けての問いかけに皆、想像がつかない。
「今、長崎で語り部をしている人は30人もいないんですよ」
私たちが継承しなければならないという現実が、改めて理解できた。
紙芝居スタイルの導入が終わり、私たちはいよいよ灼熱の外に出た。雲がなく青空が広がっていた。はじめに向かったのは爆心地公園。この上空約500mで原子爆弾が炸裂し、直後には3,000~4,000度になったとされている。一瞬で多くの人の命が奪われた場所だ。
「どれくらい熱かったか? と想像するのは難しいと思うんですけど、僕がわかりやすいと思ったのが、道に倒れていた人の目が沸騰してブクブクしていた。という証言ですね」
恐ろしいが、当時の熱さを嫌でも想像できた。
それから、やっさんの後に続いて公園の隅っこにある看板の前まで歩いた。何の看板だろう? 私たちが覗き込んだ看板には、今まさに私たちが立っている松山(爆心地周辺)の当時の地図が書かれていた。この場所は熱風によって全焼している地域。地図を指差しながらやっさんが話し出した。
「この地図は、一人の被爆者が、証言をひとつひとつ集めて被爆前の松山町を復元したものです。男性は松山の自宅に居た家族を亡くされていますが、ご自身は学徒動員先にいたので助かったそうです」
遺体も何も残らなかった松山の被爆の実相を形として残したい。という思いで復元に取り組んだ彼と、彼に協力した被爆者によって再現された地図には、びっしりと苗字が描かれていた。原子爆弾が落下した真下にも、多くの人々の日常があったことを実感できたし、継承のために“カタチ”として残すことの大切さを実感した。
やっさんは続けて話した。
「そして、この地域で奇跡的に生き残った女性が一人います。名前は黒川さんです。黒川さんはお母さんから、妹たちを連れて外で遊んでおいで、と言われ、5歳の妹の手を引いて、2歳の妹を背負って外へ出たそうです。ただ、すぐに飛行機の音が聞こえてきたから防空壕の方へ向かって行ったそうです。その瞬間に稲妻のような青い光が走って、気絶されたそうです」
あたり一面焼け野原になった場所で、黒川さんだけが生き残った理由は背負っていた2歳の妹が原爆の熱風を受け止め、黒川さんは爆風で防空壕の中に飛ばされたからである。その防空壕は平和公園の下に今も残っているというので、私たちはその場所へ向かうことになった。
平和公園に続くエスカレーターの奥に隠れるように小さな防空壕があった。しゃがんで数人が入れる程の大きさだ。私たちは小さな防空壕の中をじっとみていた。防空壕は小さいころから何度も見ていたが、大人になった今、実話と合わせて見ることで、よりリアルに当時を想像できたし、そうすることで印象にも強く残った。これが平和ガイドか...…。大人になってからの平和学習の必要性を強く感じた。
次に私たちは小高い丘の上にある平和公園へ向かうため、防空壕を後にしてエスカレーターに乗った。公園まで続いている屋根付きの長いエスカレーターは10年以上前にできたものだ。
「このあたりは下に沢山の遺物とかが埋まっているって聞いたことがあると思うんですけど、エスカレーターを建設するときに土を掘り起こしたら防空壕も見つかって。当時、被爆者の人たちが『亡くなった人が眠っとらすけん静かに眠らせてあげて!』って言って、建設に猛反対してたんですけど。今は一目散にエスカレーターに乗って『楽かねぇ』って言ってます」とやっさんが冗談っぽく話した。
平和公園へ着くと、まず初めに見えてくるのは「平和の泉」。長崎人なら誰もが知っている噴水だ。その奥へ向かうと、2日後の平和記念式典準備のため、トラックやクレーン車、多くのスタッフが集まりテントの設営をしていた。その奥に青くて大きな「平和祈念像」が見えた。設置の際は反対運動があったり、今も良く思ってない人もいるそうだけど、修学旅行生や観光客が写真を撮る有名スポットになっている。
「平和記念像のポーズには色んな説があるんですけど、僕がいつも話している説は長崎市のウェブサイトにも載っている説です。天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に伸ばした左手は“平和”を、軽く閉じた瞼は“原爆犠牲者の冥福を祈る”という意味がこめられているそうです。そして、立っている左足には、何かあったらすぐに助けに行くという意味があるそうです」
「そいは違うばい!」
急に後ろから作業員のおじいちゃんが大きな声で私たちに話しかけてきた。
ヘルメットに黄色い作業ベスト。日焼けした顔に深く刻まれたシワから齢70以上に見える。一瞬驚いたが、みんなおじいちゃんに引きつけられていた。
「上に向けている右手は原爆がこの上空で炸裂したっちゅうことで、左手はどこまでも続く平和。そんで片足が立っとるやろ? 当時落ち込んでいた長崎の人たちが、なにくそって言って、みんなで立ち上がろう! って、長崎市民を励ます意味がこめられとるんよ!」
そう話すと、おじいちゃんは満足そうにしていた。
平和公園で10年以上ガードマンの仕事をしていると平和ガイドの人たちが色んな説を話しているのが聞こえてきて、それを覚えてしまったそう。その中で、おじいちゃんが一番しっくりきている説を話してくれたのだった。
暑さでヘトヘトの私たちには最後にオアシスが待っていた。平和公園の下にある「ピースタウンコーヒー」だ。平和のことや社会のこと、政治のことなど、普段なかなか話せないことを共有できる場所を“PEACE SPOT”として、やっさんがInstagramで紹介しているカフェの1つである。到着すると私たちは早々とかき氷を注文した。
私は梅味。奇をてらわない普通のかき氷だが、酸味と甘みがほどよい梅酒のような蜜と、シャリっとした氷が体に染み渡った。来年帰省した際は他の味を食べると決意。暑さも落ち着き、みんなで今日見てきたことや、感想などを語り合っていた。
「もっと詳しく知りたい、と興味がわいてきた」
「8月にだけ、メディアが平和について報道するのに違和感があった。こうして自分で見て聞いて感じることが大切だと思った」
「小さい頃から見聞きして、辛い気持ちになるので、大人になってからは特集番組とか原爆については避けてきたけど、やっさんの話は恐れずに聞くことができた」
などなど、やっさんのフランクなガイドは10人それぞれに響いたようだった。クイズや豆知識は次の日に誰かに話したくなるような内容で、このガイドに参加した人たちはきっと他のだれかにこの話をするんだろうな、と次のアクションが思い浮かんだ。
店内にいた10代後半くらいの女の子2人。「広島の原爆は何時に落ちたか言える?」と、普通のカフェでは聞けない会話が起きていて嬉しくなった。奥では50〜60代くらいの3人が話し込んでいた。長崎で有名な平和活動を行っている方々で、やっさんとも知り合いらしい。被爆者の方と渡米するためのクラウドファンディングについて話し合っている最中だった。私たちの会話を聞いて、彼らは微笑んでいた。ここは本当に“PEACE SPOT”であることに感心する。私は戦禍を経験したわけではないから、見聞きしたことから想像するしかない。
名曲『イマジン』ではないけれど、人間にしかない特異な能力である想像力を掻き立てるように伝えるしかないし、それは聞く側も同じで、想像するしかない。そして人間は創造することができる。おそらく争いのない未来も。何事もできると信じることが大事だと思う。
ロシアとウクライナ、さらにはハマスとイスラエルの問題も。ここ数年、ニュースで目にする機会が多く、戦争や核の恐怖をリアルに感じている人も多いのではないか、と思っている。
今、私たちがメディアを通して目にしているような辛い光景にくわえ、「原子爆弾投下」という非人道的な攻撃を78年前に経験した人たちがいる。辛い想いをしたにもかかわらず、78年ずっと声を発してきた被爆者の声に耳を傾けることも一人一人ができる平和へのアクションだと思っている。
エッセイ、すごくよかったです。書いてくださってありがとうございます。来年何味のかき氷を食べられるのか、今から気になります☺︎